始めに宣言しておきましょう。
毒、吐きます。
わたしは、「手話コーラス」否定派です。
「手話」と「歌」は相容れないものだと思っています。
以前このブログでも話題にしたことがありました。
いろいろご意見いただきましたが、やっぱり、イヤです。
そこには「ろう者」の視点がないからです。
手話サークルが終わった後。建物付近で聞こえない人と手話で話していたら、知らない女性から声をかけられた。
「【春が来た】の歌を手話でやりたいんだけど、どうやったらいいですか?」
みなさま、ご存じのこの歌。
もう、日本人のDNAにしみこんでいるのではないかと思うくらいに、慣れ親しんでいますよね。
♪春が来た どこに来た?
山に。里に。野にも。♪
(微妙にジャスラックさんなんか意識してみた表記なんだけど、どうなんでしょうか。)
「春が来た」という日本語を聞いて浮かぶイメージがある。
…冷たい風が柔らかくなる
陽射しが穏やかになる
木々が芽吹く 草が伸びる 花が咲く 鳥がさえずる
「春が来た」。この4つの文字だけで あるいは5つの音だけで、大方の日本人はこれに類似した統一のイメージを持つことが出来る。あるいは、こういうイメージを浮かべるものだという無意識のうちの意思統一がある。
そのイメージと共にこの歌は歌われ、聞かれ、愛されているわけです。
でも、ろう者にはそれがない。
「来る」という言葉にあたる手話は、どれくらいあるでしょうね
立てた人差し指を人に見立ててこちらに寄せてくる「来る」が最初に浮かぶかな
「歩いてくる」とか「車でくる」とか。、
この場合は「誰が」「どこに」「どうやって」来るのか、までが要素としてないと、手話では表現しきれない。それは手話の、言語としての特質だと思います。
でも、「春」は、来ないんですよ。
季節の変化をすべてまとめて「春が来た」という言葉に載せている。
だから、いわゆる「来る」という言葉とは、別の意味で使われているわけです。
なんて話しを、手話に触れたこともないその女性にお話しさせていただきました。
一緒にいたろう者も言いました。
「歌は難しい。言葉通りに表しては伝わらない。
歌が好きなろう者もいる。そういう人に会って、指導してもらえばいい。
僕は歌が嫌いだ。だから歌は教えられない」
「伝わらない手話で歌われては困る。ろう者はそれをみて間違った解釈をするかもしれない。それはとても困る」
ふと思い立って、聞いてみました。
「どうして手話を付けて歌うんですか?」
その女性はおっしゃいました。
「耳の聞こえない人でも、言葉が話せなくても、こうやって手話というものを使えば通じ合えるんですよ、というのを、自分のコーラスグループの歌を聞きに来ている人に伝えたい」
…ひっくり返りそうになりました。
「でも、今わたしと5分話しただけで、手話について初めて聞いたことがたくさんおありでしたよね?そういうお立場で、他の方への啓蒙をすることが本当に必要ですか?」
わたしの言葉に、「そうですね…」とばつの悪そうな顔をして、その女性は去って行かれました。
非常に後味が悪かったです。
共に手話に関わる仲間の中には、手話コーラス肯定派も少なからずいます。
「いいじゃない。それが手話にはいるきっかけになれば。それで興味が出て、そのあとサークルに入って、ろう者と触れあっていけば。」
でも、わたしはイヤなのです。
聞こえない人の言葉である手話を、聞こえない人を全く切り捨てて、聴者の自己満足に使われることが。半ば娯楽の用に使われて、「良いじゃない別に、ここには聞こえない人いないんだから。」って言われることが。
たとえば…ですよ。
とおい異国の人が、言いました。
「日本語っていう言語があるらしい。漢字とかいう変な形の文字を使うらしい。へぇ、面白い。」
辞書で単語を調べて、歌に言葉だけ乗せて歌いました。
♪昨日、すべて 私の 問題たち 見える 遠くで
今 それは 見える 思われる ココに滞在するため
嗚呼 わたしは 昨日の中で 信じる ~♪
【ビートルズの名曲・Yesterdayの単語だけを和訳しました】
こんな歌の後に、「日本人をよろしくなー」なんて言われたら、軽く殺意を覚えると思いますよ。
手話コーラス好きな人も沢山いるから、わたしはこれからも、嫌い派で行こうと思います…ごめんなさい。